みなさん、「英語を学ぶ」 ということと 「英語を勉強する」 ということは二つの違う行為であるってご存知でしたか?
そう、「英語を学ぶ」 ということは 「ピアノを学ぶ」、「卓球を学ぶ」、「料理を学ぶ」 などに似ています。
一方、「英語を勉強する」 ということは 「数学を勉強する」、「歴史を勉強する」、「医学を勉強する」 ことと同じ。いずれも意味は同じようにも思えますが、一体何がどう違うのでしょうか?
これは目的にも依りますが、実は日本だけの特有なものかもしれません。
そう、日本以外の国では大抵の場合、言語の本来の目的である 人と話すこと、通じ合うこと、そして理解し合うことを主旨として学ぶのが主流なんです。
ところが我国、日本でのこととなれば別。
言語、とりわけ英語については、本来の言語の主旨は無視。
あくまでも一つの資格、学問や試験項目の対象になっているということです。
だから英語を 「学ぶ」 のではなく 「勉強する」 対象になっているのが一般なんですよね。
そう、目的が試験、資格を得るための学問に過ぎないのであれば勉強すればいいんです。
しかし人とのつながり、理解し合うこと、通じ合うことを目的とするならばその方法は勉強という形ではなく、学ぶという形を選ぶ必要があります。
試験、資格を得るための勉強をいくら頑張っても、本来の主旨である 「人と通じ合う」 能力の向上につながるとは限りません。
これはその逆もまた同じです。
英語が一つの試験や受験科目、資格になっている限り、我が国では海外の人からも認められるまたは高い評価を受ける 「英会話力」 を身に付けることにはつながりません。
その理由には別のもう一つの重要なカギとなる内容も存在します。
それは 「言語」 = 「その言葉を使う人々の感性、習慣、文化」 によって作られるからです。
どの時代でも、どこの国でも、「言語」というものは常にその時代の人々の感性、習慣、文化を表しています。
その国の人々がもつ感性や感覚、つまり何をどう見ているのか、感じているのか、何がダサくて何がカッコいい、何が美して何が醜いのか、何が好ましくて何が望ましくないのか、などによって新しい言葉、形容詞、表現が作られていきます。
言語はその時代の流行り、社会情勢、経済状況からも言葉、表現、熟語などが生まれます。
言語はその言葉を使う人々の歴史、背景、伝統や古くから伝わる習わしなどを由来とした言葉、ことわざ、熟語も数えきれないほどあるのが常識。
これらをすべて無視し、または由来を知らずしてただ暗記するだけの勉強は辛い、つまらない、難しいだけ。
しかもただの学問として単に学ぶだけだとしたら、それは通じないだけではなく、状況によっては相手との最悪の結論を招くことにもつながることでしょう。
一つの実例を挙げてみますね:
以前、私の大切な生徒さんの一人で高校では居合道部という部活に入られていた高校生の生徒さんがいました。
私はその生徒さんから聞くまではそんなかっこいい部活があることすら知りませんでした。
日本でずっと暮らしてこられた皆さんはご存知ですよね?
そう、つまりには日本の伝統である刀を扱う武道のことです。
ではその生徒さんがそこの部で何をどう学んでいるか、ご存知ですか?
日本刀の居合をマスターするにあたっては、日本の刀が材質は何で出来ているか、どう作られるか、どれくらの期間で作れるか、またはワザや動きのネーミングなどをひたすら勉強して何をどれだけ覚えたか、ひたすら暗記力を試す試験を何度も繰り返すことにどれだけ意味があると思いますか?
もしくはその部に入ったらいきなり刀を渡され、相手と向き合って居合のコツを伝授されると思いますか?
英語もこれと全く同じなんです。
実際、英語には次のような言葉があります;
“Pen is mightier than the sword”
直訳するならば、「ペンは刀 (剣) より強し」 。
ここで言う 「ペン」 というのは「言葉」 を意味しています。
そしてこの言葉というものは、使い方を誤ればそれは剣以上に人を傷つけることがある、ということです。
英語は学問なんかではなく、言語です。
単に英語の文法、単語や熟語などの正しい使い方をひたすら勉強するより、英語を話す人々の感性、感覚、背景、歴史、文化、習慣、流行、また傾向などの様々な要素を取り入れて初めて理解できるようになるのでは?
またこういった重要な課題を無視し、相手とは違う自分の言語をベースとした感性、感覚、常識を相手に押しつけて話すことがどれだけ危険か、もう想像できますよね?
英語の勉強に長年取り組んでいるのになぜ話せるようにならないのか、大きな壁にぶつかっている方々はぜひ一度、こんなことも一度考えてみてくださ~いっ!!