英会話 = 単なる学問ではありません!
前項の「いじめ」の問題に迫った重たいテーマの後半にお話した “communication” 、つまり「会話力」 についてもう少し。
それは現代の日本人の会話能力の実態。
日本人は世界でも群を抜いて会話力が無い、会話が下手だと言われています。
“communication” 力については大の大人でも平均的にゼロに等しい。
以前から何度もお伝えしている通り、日本から出た場所で日本語ができない人と会話する時、使う言語は普通どこでも英語。
話している相手がネイティブであれば少なくとも自分の英語力が完璧ではなくてもすぐキレたり、不満を示して来たりなどはしません。
でもそこで、その場で communication 力に問題がある時、そう、会話力に欠けている時はすぐ反応し、呆れかえったり、無視されたりするんです。
実際のところ、これは仕方がありません。
日本の教育ではこの communication 力については殆どノータッチ。
一切触れていなければ教育内にきちんとした形で取り組まれていないのが事実。
これは単に「文化の違い」だと理屈を言う人もいますが、もはや今の時代そういう問題ではないことくらい解りますよね。
それはまず米国を始め、西洋では幼い頃から我国、日本で行われてきているような教育方針とは根本から全く違うんです。
それは人間誰しも感性、感覚が皆違うという十人十色を完全に無視し、皆全く同じ内容の情報をどれだけ如何に頭に叩き込んで暗記できるかという競争または競技ではなく、西洋では常に個人それぞれがもっている独特性、感性、感覚をどれだけ伸ばし、言葉にして効率良く周りに説明できるか、またそれによってこの世界でどんな貢献をどれだけするか、についてひたすら練習させられるのが学校の教育。
だから試験、テスト、受験なんてほとんど無い、存在しません。
つまり幼い頃から自分を世間に当てはめる、自分が持っている力を社会、地域、町中でどう活かすか、活かせるか、活かさねばならないかについて学ぶんです。
結果的に、国の義務教育を終える高校卒業時にはすでにこの世界で何の不自由やためらいもなくバリバリ働いて人の為になることを知って卒業するということ。
ここでもう少し分かり易い具体的な例を見てみましょうか?
下記例は全て平均。
まれにそれ以上、それ以下の人もいますが、あくまでも「平均」。
例えば米国の場合:
小学生低学年: 通りや町中ではもちろん、閉鎖された空間(室内とか)でも知らない大人に大声できちんと挨拶できる。
小学生高学年: 自分の意志やはっきりとした考えをもち、それを大人に大声で明確にきちんと伝えられる。
中学生: きちんとした自己紹介のみならず、自分の家族の紹介、将来の夢、趣味や好きなこと、嫌いなことをきちんとした理由から説明できる。
大人の中に入ってきちんと対等に会話ができる。
高校生: 自分の専攻とそれに結び付く将来目指す職業、人生設計や夢などについてもきちんと説明できる。
もちろん、大人のグループ内でも普通に誰とでもきちんとした会話ができる。
では今後は日本の場合、逆の大学生から始めて順々に下にいけるところまで見てみましょう:
大学生: 米国の小学生低学年レベル:つまり知らない大人に大声できちんと挨拶できるかできないか微妙なレベル。
きちんとした自己紹介は半分以上の割合で全くできないのが普通。
高校生以下: 知らない大人に大声であいさつもできなければ自分で自分の判断を伝えられない。 ⇒ それはほとんど親がしてくれることを頼りにしている。
例えば英会話スクールなどの入学はもちろん、辞める時でも自分の意志を自分でスクールに伝えることはできない。
あくまでも親に完全依存。
西洋と日本の子供たちの会話力の差をさらに明確にした例がこちら:
これは日本にホームスティにきた学生が事前に日本側でお世話になる家族宛に出した手紙の内容を抄訳したものですが、まずこの本人というのはカナダ人の学生14歳。
「こんにちは。
私はカナダの〇〇〇〇に住んでいる14歳の中学生です。
私の家族は5人いて〇〇〇の職業をしていつもテレビばかり見ている父、〇〇〇(名前)と専業主婦でハローキティ―が大好きな母、〇〇〇(名前)、それに現在スキーに超ハマっている姉、〇〇〇(名前)と最後にいつも寝ることが一番好きな〇〇〇(種類名)の犬、5歳のオスの〇〇〇(名前)です。
今まで家族から離れ、一人で海外で過ごしたことが一度も無いので不安な気持ちでいっぱいですが、今回の日本での滞在を通して私の全く知らない初めての文化に触れあい、新しい友達をたくさん作って将来の私の人生に役立つ広い視野をもった人間になりたいと考えてます。
私はすごく負けず嫌いですが人への感謝の気持ちと思いやりは絶対忘れないようにしています。
それは私の母から教わった大切なこと。
こんな私ですがどうぞよろしくお願い致します。」
さて、日本の14歳の学生、いいえ、一流大学に通っている大学生でもこのような手紙を自分で書くことなんて果たしてできるでしょうか?
これまでにも何人かの大学生(しかも一流大学の学生)に
「日本語でいいから自己紹介をしてみてください。」
と頼んでみたことがありますが、ほとんどの場合まずは言えるのは名前だけ。
その後こっちから何も言わなければずっと黙ったまま。
そこで助け舟のつもりに質問してあげることにしてみました。
「あなたはどんな人間ですか?」
すると、「質問の意味が解りません」。
なので気を取り直してもう一度、
「例えば何が好きで何が嫌いですか?」
と聞くと、
「私はディズニーが大好きです!」と答えてくれました・・・・!!!!
「ご家族は?」
「普通にお父さんとお母さん、妹が一人です。」
「では留学、ホームスティする理由、目的は?」と聞くと、
「特にないです。皆行くから。」
さて、こんなやり取りは決して珍しくありません。
というか日本ではこれが普通。
質疑応答という形でなければ何の情報も得られない、一人自身では何も語れない、表現力が無い、ユーモアが無い、故に会話力も説得力も、発言に魅力すら持ちません。
もちろん、これは学生さんが悪いわけではありません。
日本ではもはやこういうレベルの若者が何の珍しくもない常識、当たり前、普通とも言ってしまう大人たち。
その時点でもう諦めに入ってますよね?
英語を話すということは「日本語ができない人と話すこと」なんです。
英語を話すといこと、それは英語を話す上で常識中の常識の最低限の会話力ぐらい持ち合わせていなければ話にもなりません。
現代の大人たち、それは学校の先生のみならず、はるかそれ以上に家族、両親のこと、お父さんやお母さんのこと、責任重大です。
嫌なら英語なんて学ばず日本から一歩も出ないでこの国の中だけで暮らせばいいんです。
そう、日本国内で生きるだけなら今流行りの英語なんてち~っとも必要無いはずです。
でもその反対に本当の会話力を英語の勉強と一緒に学び、吸収し、マスターするならば、例え何年かかってもその先には全く違う未来、世界、成功と失敗が待っています。
まだまだこの先長く生きる人生設計の中で選択肢が例えば3つしかないのに対し、会話力を伴ったネイティブ英語力を身に付けた人はそれが数十個、いいえ、数百個という数の違い。
英語はただの受験、試験、また英検やTOEICなどの資格用にあるものではありません。
だから仮にそこでどんな受験に受かっても、どんな資格に合格しても、それはその時その場で嬉しいだけ。
その先にある社会に出た時に役立たせられる内容かどうかについてはまずほとんどが疑問。
言語、それは人と人とのつながり、意志の疎通、そして互いに理解しあうことで力となり、助け合い、素敵な友情につながる会話手段の一つなんです。
今日からでも決して遅くありません。
まずは言語を数学や理科、歴史などの単なる学問としてではなく、英語に対する見方を今からでも変えてそこに規則もなければ絶対なんて存在しない柔軟な心地よいもの、楽しいもの、嬉しいもの、素敵なものであるということをまず理解しましょう!!